로그인彼女の視線が、私のドレスを舐めるように上下する。
「そのドレス、天道様にあてがって頂いたの? 身の程知らずもいいところね。豚に真珠とはこのことだわ」「……仕事で、同伴させていただいただけです」「仕事? ああ、そういえば夜のお仕事もなさっているとか」 下卑た嘲笑が周囲から漏れる。 悔しさに唇を噛み締めるが、反論などできる立場ではない。私が騒ぎを起こせば、征也の顔に泥を塗ることになる。 耐えるしかない。そう思って俯いた、その時だった。「きゃっ!」 わざとらしい悲鳴と共に、バシャッという湿った音が響いた。 私の足元に、赤い液体が飛び散る。 エリカが持っていた赤ワインのグラスが、私の靴のすぐ側で砕け散っていた。ワインの飛沫が、私のドレスの裾と、エリカ自身の銀色のパンプスを汚している。「あーあ。手が滑ってしまったわ」 エリカは悪びれる様子もなく、大げさに肩をすくめた。 そして、氷のような冷たい目で私を見下ろし新しい、けれど決して高級ではないスチール弦が、硬い音を立てて空気を震わせている。 柱の影に、その人はいた。 色褪せたチェックのシャツの袖を腕まくりし、傷だらけの古いギターを抱えてパイプ椅子に腰掛けている。フードは被っておらず、癖のある少し長めの前髪が、街灯のオレンジ色の光を浴びて琥珀色に輝いていた。 周囲に足を止める聴衆は、今日もまばらだった。家路を急ぐサラリーマンや、スマートフォンに目を落とした学生たちが、レイの側を無関心に通り過ぎていく。 だが、レイは気にする風でもなく、ただ前を向いて、透明な歌声を響かせていた。 結衣は、邪魔をしないように少し離れた柱の陰に立ち、その姿をじっと見つめた。 三日前、三百万円のヴィンテージギターを巡ってレイと衝突した時。お金の力で相手の心を囲おうとした自分の傲慢さを、レイは鋭く拒絶した。けれど、泣き崩れた自分の涙を、あの硬い指先で優しく拭ってくれた。『次からは、手ぶらでおいでよ』 その言葉通り、今の結衣の手には、何もない。天道家の看板も、財力も、すべてビルの外に置いてきた。ただの一人の少女として、ここに立っている。 ポロロン、と最後のコードが掻き鳴らされ、歌が終わった。 レイは小さく息を吐き、前髪をかき上げながら顔を上げた。その琥珀色の瞳が、柱の陰に佇む結衣の姿を真っ直ぐに捉える。「……あ、やっぱり来た」 レイの唇が、柔らかい弧を描いた。その無防備な笑顔を見た瞬間、結衣の心臓が、トクンと大きな音を立てて跳ねた。「お疲れ様、レイ。今日も、素敵な歌だったわ」 結衣は歩み寄り、ビールの空き箱をひっくり返した簡易的な椅子に腰掛けた。制服のスカートが擦れる音。「ありがと。でも、今日はちょっと声が伸びなかったかな。夕方の風が少し冷たいからさ」 レイはそう言って、ギターのネックを愛おしそうにタオルで拭き始めた。その指先には、昨日裂けたという傷の跡が、小さな硬いかさぶたとなって残っている。「レイは……どうしてそんなに一生懸命に歌うの? 誰も足を止めない日だってあるのに」 結
クローゼットの鏡に向かって、左右のバランスを確かめるようにして制服の襟元を整える。一本の乱れもない黒髪は、毎朝ヘアスプレーで完全に固定されている。この完璧な令嬢の髪型を維持するために、どれほどの時間が費やされているかなど、周囲のクラスメイトたちは想像すらしていないだろう。 ふと、三日前に大理石の床へ座り込んで震えていた父親の姿が頭をよぎった。いつもなら見上げるほど高く、冷徹な仮面を被っていたあの背中が、母親の容態急変を前にして、あんなにも小さく縮むなんて思いもしなかった。「……パパも、ただの人だったのね」 小さく呟いた言葉は、無臭の広い自室に吸い込まれて消えた。母親が一命を取り留め、病室の空気が少しだけ緩んだからこそ、そんな不謹慎なツッコミを内心で入れる余裕ができたのかもしれない。 だが、父親への複雑な感情よりも、今の胸の奥を占めているのは、別の熱だった。 鞄の底に指先を滑らせると、あの汚れた高架下で手渡された、空のコーヒー缶の感触が蘇るような気がした。もちろん本物はすでに処分されて存在しないが、人工的な甘さと、手のひらを焦がすような熱さは、今も皮膚の記憶として鮮明に残っている。「お嬢様、お車の用意ができております」 一階へ降りると、SPの鈴木が直立不動の姿勢で頭を下げた。「ええ。行きましょう」 いつものように隙のない微笑みを浮かべ、黒塗りのセダンへと乗り込む。車内には、一切の雑音を遮断した無機質な空間が広がっていた。だが、滑り出した車の窓ガラスに映る自分の顔は、どこか浮足立っているように見えて仕方がなかった。 鈴木を出し抜くための言い訳は、昨日から完璧に組み立てていた。「鈴木。駅前の商業ビルで、友人の誕生日の贈り物を探したいの」「かしこまりました。では、同行いたします」「いいえ。女の子の秘密の買い物に、黒スーツの男性がついてくるなんて、相手へのサプライズが台無しになってしまうわ。ビルの入り口で待っていてちょうだい。三十分、いえ、四十五分で戻るから」 少しだけ茶目っ気を含んだ、けれど反論を許さない口調。父親の冷徹な威圧感を、都合よく令嬢のワガママに変換して出力する技
「相手がルールを守らないのであれば、こちらはルールを書き換え、盤面ごと叩き割る。それが、持てる者の義務だ」「……だからって、他人の人生を、そんなゲームの駒みたいに……」「力とは、愛する者の世界ごと背負うためにある」 征也の低い声が、車内の空気をびりびりと震わせた。 陽向は顔を上げる。「中途半端な覚悟で、他人の人生に触れるな。守りたいものがあるのなら、自分の手を泥で汚し、相手の世界を丸ごと背負う覚悟を持て。それができないのなら、最初から正義感など振りかざすな」 征也の言葉が、重い鉛となって陽向の腹の底に沈み込む。 その瞬間。 陽向の脳裏に、あの深夜のICUの前で、壁に手をついて震えていた父の背中が、まざまざと蘇った。 すべてを力でねじ伏せ、冷徹に支配しているように見えたこの男は。 その裏で、常にこの泥沼のような重圧を一人で背負い続けていたのだ。 眠り続ける母を、外界のあらゆる脅威から守り抜くために。自分たち子供に一切の泥を被せないために。 どれほど周囲から「魔王」と恐れられ、冷血だと憎まれようとも、ただ一つの大切なものを守るために、己の手を汚し続ける狂気的なまでの覚悟。 それが、天道征也という男の流儀だった。 陽向は、自分の足元を見た。 履き潰したスニーカーのつま先には、昼間駆け回った時の泥がこびりついている。 親父のやり方に反発し、自分の力だけで立てると信じて家を出た。 だが、そのちっぽけなプライドを守るために、一番助けたかったはずの少女を泣かせた。 自分が一日かけても動かせなかった世界を、父は圧倒的な力と覚悟で、一瞬にして安全な形に作り変えてしまった。(……俺の負けだ) 陽向は、膝の上に置いていた両手を、ゆっくりと太腿の横に下ろした。 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 そして、向かい側のシートに座る征也に向かって、額が膝につくほど深く、深く頭を下げた。「……教えてくれ」
「木崎の父親が勤務する中堅商社については、主要取引先を通じて過去の不正な取引処理と信用不安の資料を提示済みです。明朝九時には社内調査が開始され、木崎の父親も責任者として処分を免れない状況です。また、木崎本人の就職内定先である大手銀行の人事部へは、素行不良の事実と被害届のコピーを内容証明で送付済みです。明日の午後には、内定取り消しの検討に入る見込みです」 淡々とした、事務的な声。 陽向は息を呑んだ。 たった一日、自分が靴底をすり減らして警察や大学を駆け回り、必死に訴えてもビクともしなかった現実の壁が。 電話一本で、紙切れ一枚で、完全に崩壊していく。「大学の学生課については?」 征也の問いに、三田村は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。「天道グループからの次期キャンパス建設への寄付金の保留を示唆したところ、十五分前に学長から直接連絡がありました。木崎および関与したサークルメンバー数名は、明日の教授会で、停学を含む懲戒審査に入ります。関与が確認されれば、退学処分も避けられません。警察にも正式な資料を提出済みです。被害届の受理と同時に、明朝には脅迫および威力業務妨害の容疑で任意聴取が入る見込みです」「……待てよ」 陽向の声が、車内の静寂を破った。 膝の上の拳が、小刻みに震えている。「店へのネットの書き込みはどうするんだ。あいつらが捕まっても、嘘の噂が残ったままじゃ、客は戻らない!」「ご安心を、陽向様」 三田村が、感情の乗らない声で答える。「専門の対策チームが、書き込みのログと関連アカウントを押さえています。発信者情報の開示手続きと並行して、明日には関係者全員へ警告書と損害賠償請求の予告通知を送付します。請求額は、学生同士の悪ふざけでは済まされない規模になる見込みです。同時に、主要なネットメディアやグルメサイトへは、すべて事実無根の悪質な嫌がらせであったという声明を、天道グループの法務部名義で一斉配信します」 完璧な、隙のない社会的な抹殺。 暴力よりもはるかに冷酷で、逃げ道のない包囲網。 陽向は口の中がひどく乾燥していくのを感じた。
ツーツー、ツーツー。 無機質な切断音が、暗いアパートの室内に響き続けていた。 陽向は畳の上に座り込んだまま、熱を持ったスマートフォンの硬い角を手のひらに食い込ませるように握りしめている。 結月の泣き声が、鼓膜に張り付いて離れない。 火をつける。 その言葉が、泥のような疲労で麻痺していた陽向の脳髄を、鋭利な刃物のように掻き乱す。(今すぐ行って、あいつらを殴り飛ばすか……?) 奥歯を噛み締め、立ち上がろうとした足が止まる。 殴ればどうなる。警察は自分を傷害罪で逮捕するだろう。そして木崎たちは、必ず結月の店に報復する。正論が通じない相手に暴力で立ち向かえば、結果的に一番傷つくのは結月たちだ。 思考が完全に袋小路に陥り、息が詰まる。 肺に空気が入ってこない。 その時、薄いブラインドの隙間から、強烈な車のヘッドライトの光が差し込み、天井に白い筋を描いた。 静まり返った路地に、重厚なエンジン音が響く。 足音が聞こえた。 錆びた鉄の階段が、ミシミシと軋む音。 陽向の部屋の前で足音が止まり、短いノックの音が二回、鳴った。「……誰だ」 乾いた喉から絞り出した声に、ドアの向こうから聞き慣れた声が返ってくる。「泥遊びは終わったか」 低く、冷ややかな響き。 陽向は弾かれたように立ち上がり、ドアノブを回した。 初夏の湿った夜気と共に、高級なシトラスの香水の匂いが鼻腔を突く。 狭い通路に立っていたのは、仕立ての隙がないネイビースーツを着こなした天道征也だった。一歩後ろには、銀縁眼鏡をかけた秘書の三田村が控え、薄いタブレット端末を脇に抱えている。 数日前の深夜、ICUの扉の前で肩を震わせていたあの脆い姿は、どこにもない。 冷徹な眼差しが、陽向の履き古したスウェットと、すり減ったスニーカーを見下ろしていた。「……親父。なんでここに」「迎えに来た。乗れ」 征也は短く告げると、踵を返して階段を
◇ すっかり日が落ち、夜の帳が下りた街。 陽向は、自分のアパートの薄暗い一室にいた。 電気もつけず、畳の上に大の字になって寝転んでいる。 壁の向こう側から、隣人のテレビのバラエティ番組の笑い声が、こっそりと染み出してくる。 足の裏の痛みが、拍動に合わせてズキズキと響く。 夕方から何も食べていないはずなのに、空腹感は一切なかった。 あるのはただ、自分の無力さに対する、泥のような疲労感だけだ。 その時。 暗闇の中で、スマートフォンの画面が突然、青白く光を放った。 ブー、ブー、と畳を震わせる激しい振動音。 陽向は弾かれたように身を起こし、端末を手に取った。 画面に表示されていた名前は――『朝比奈結月』。 通話ボタンをスワイプし、耳に押し当てる。「……結月さん!?」 しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、言葉ではなかった。 ヒクッ、ヒクッという、激しいしゃくり上げ。 彼女が、声を殺して泣いている気配。「……結月さん、どうしたんだ? 何があった」「天道くん……っ」 結月の声は、今にも消え入りそうなほど細く、震えていた。「もう……お願いだから、私たちの前に、現れないで……」「え……?」「さっき……木崎たちが、店の前にまた来て……。お父さんに、言ったの。……あの天道って男がこれ以上嗅ぎ回るなら、次は店に火をつけるって……。お父さん、腰を抜かして、今も震えてる……」 陽向の全身の血液が、一瞬にして凍りつくような衝撃が走った。「違うんだ、結月さん! 俺、警察や大学に行って、ちゃんとあいつらを……」「警察なんて、何もしてくれないじゃ
昨夜の嵐が嘘のように、港区の高級マンションには穏やかな朝の光が満ちていた。 けれど、高嶺エリカの指先は、エアコンの暖房など意味をなさないほど冷え切っていた。握りしめた最新型のスマートフォンが、不快なリズムで振動を繰り返している。 通知画面に躍る速報ニュースの見出しが、網膜に焼き付いて離れない。『神宮寺銀行次期頭取候補、神宮寺蒼氏を逮捕。山間部の別荘にて女性を監禁、中絶強要の疑い』「……嘘」 喉から、掠れた音が漏れた。 蒼が莉子を連れ去ったことは知っていた。それどころか、彼が莉子を「標本」
彼の肩が震えている。 あの傲慢で、自信に満ち溢れていた「天道征也」の姿はどこにもない。 ただ、大切な人を傷つけてしまった後悔に苛まれる、一人の男がいるだけだ。「違うよ。……あなたが来てくれたから、助かったの」 私は、自由なほうの手を伸ばし、彼の乱れた髪に触れた。 ごわごわしていて、少し汗の匂いがする。 でも、それが愛おしい。「あなたが『逃がさない』って言ってくれたから……私、頑張れたんだよ」「……莉子」
嬉しさと、悲しさと、どうしようもない絶望がない交ぜになって、感情が制御できない。 この子は、生まれてきていいの? こんな状況で。 父親は私を騙した詐欺師で、母親は狂人のコレクションルームに監禁されている。祝福なんてされるはずがない。「……莉子ちゃん? まだかい?」 ドアの向こうから、蒼くんの声がした。楽しげな、弾むような声。まるで、結果が出るのを心待ちにしているかのような。「……出ます」 私は涙を拭い、深呼吸をした。 隠すことはできない。彼は最初か
窓ひとつない密閉された部屋に、重たく湿った衣擦れの音が響く。 歩くたびに足元でシュ、シュ、と鳴る乾いた摩擦音は、まるで降り積もった枯れ葉の上を踏みしめているようで、背筋が寒くなった。「……うん、やっぱり素敵だよ。莉子ちゃん」 神宮寺蒼が、ほう、と熱っぽい息を吐き出す。 眼鏡の奥で細められた瞳は、私を見ているようでいて、どこか透き通って焦点が合っていない。彼が見ているのは生身の私ではなく、自分が丹精込めて作り上げた『作品』としての私なのだと肌で感じる。 壁に掛けられた鏡の中に、見知らぬ女が映っていた。







